Kiyoji Otsuji
Photography Archive

トピックス

2023.9.23
エッセイ

二つのアーカイブ

沢山遼

1.

武蔵野美術大学 美術館・図書館は、写真家・大辻清司が残した膨大な数の写真プリントのほか、フィルム原板、関連資料などによる「大辻清司フォトアーカイブ」を所蔵する。本展は、大辻の生誕100年を記念し彼の仕事を検証するものであると同時に、これまでも断続的に行われてきた、フォトアーカイブの研究調査の成果を示すものである。
2008年に実現した、同館へのコレクションの寄贈以降、大辻アーカイブはその調査研究の成果として何冊もの詳細な記録集や出版物(『大辻清司アーカイブ フィルムコレクション』1―7巻『大辻清司:武蔵野美術大学 美術館・図書館所蔵作品目録』など)を刊行してきたほか、2012年には展覧会「大辻清司フォトアーカイブ:写真家と同時代芸術の軌跡1940―1980」を開催した。
おそらく、大辻アーカイブのように継続的なアウトプットが実施されてきた個人写真家のコレクションは、世界的にみても稀である。その意味で大辻アーカイブは、大辻清司の仕事を彼のアーカイブを通じて検証するのみならず、アーカイブそのものの実践事例としてもきわめて重要な前例をなすものとして今後、参照され、記録されるはずである。

2.

「アーカイブ」という視点から大辻の仕事を振り返れば、大辻アーカイブが通常の個人作家のコレクションとはやや異質であることがわかる。写真家としての大辻の仕事は、1950年代から70年代の日本における、いわゆる「現代美術」という文化的枠組みが成立した時期と完全に併走しえた稀有な事例である。本展でも紹介されるように、大辻は、グラフ週刊誌『アサヒグラフ』を舞台として造形作家(北代省三、斎藤義重、山口勝弘、駒井哲郎、勅使河原蒼風、長谷川三郎、浜田浜雄)たちと共同制作したオブジェ写真《APN》の連載(1953―54)、「実験工房」のメンバーが中心となり上演した「月に憑かれたピエロ」(1955)などの舞台作品、土方巽の舞踏「禁色」(1959)、「もの派」の原点として知られる関根伸夫《位相―大地》の設営(1968)、「クロス・トーク/インターメディア」(1969)、東京ビエンナーレ‘70「人間と物質」展(1970)など、いまとなっては伝説的な数々の企画や作品に立ち合い、写真家としてそれを記録した。記録媒体の乏しい時代であり、あるいは将来のために出来事を記録保存するという認識が現在ほど共有されていなかった当時、大辻の写真がなければその実態をつかむことが難しいものも多い。たとえば、映像記録の残されていない「クロス・トーク/インターメディア」を研究する研究者は、それが大辻の写真であるか否かとは無関係に、大辻の写真を参照することが不可欠である。つまり、大辻アーカイブは、大辻個人のアーカイブであると同時に、同時代の日本の文化実践それ自体のアーカイブであるという二重性をもつ。それは写真作家であると同時に、記録者であった大辻の二重性と並行している。
それは、多くのドキュメントを残した大辻の仕事自体が、もとよりアーカイバルな性格をもって展開されたことを意味する。その活動は大辻清司という写真家自体の仕事の膨大さ、広範さを反映するが、ゆえにその性質が、彼の仕事の捉え難さともなってきたことは否定しがたい。そのアーカイバルな仕事の性格によって、50年代以降の日本の文化実践のさまざまな場に、大辻のすがたがみえる。当時さかんになった複数の表現ジャンルを横断するジャンル間の交流は、「インターメディア」的実践と呼ばれる。「実験工房」をはじめとして、大辻の写真は、とくにこの状況と連動、併走するものだった。しかし、大辻の写真が、人的なネットワークにもとづく複数の表現ジャンル間の交流、連続や接続を目撃し、もろもろの文化実践を媒介することになったのは、大辻清司という写真家自身に内在していた問題と通底しているように思われる。

3.

たとえば1940年末に大辻が制作した一連の写真は、シュルレアリスムを源流とする。大辻はシュルレアリスムを端緒とする写真に、本来結びつくことのない一連の事象が一枚の平面(映像)のなかにシークエンスとして保存(アーカイブ)される状況を感じ取っていた。シュルレアリスムは、フロイトの精神分析における臨床技術として開発された「自由連想」を芸術的な方法として展開することから出発した運動である。シュルレアリストたちは、無意識を、そこでいかなるものでも遭遇することができる基底面であり、創造的なトポスとなりうると捉えた。大辻の写真の場合、それは、無数の視覚的な「徴」が同一の写真平面のなかで結びつく運動として展開されている。
ある意味でシュルレアリスムは、50年代以降のインターメディア的な実践の源流であると言える。とくに日本ではそうだった。それは、日本に瀧口修造という批評家がいたからである。瀧口はその執筆活動によって、ヨーロッパとほぼ時差を置くことなく、日本にシュルレアリスムを導入した。瀧口は、のちに若い芸術家たちが集結した「実験工房」の理論的、精神的支柱としてグループを支えた。アンドレ・ブルトンらによって開始されたシュルレアリスムは、文学と美術を横断する運動体だった。よってそれは、クレメント・グリーンバーグのモダニズム批評における「それぞれのジャンルを規定しているメディウムは、そのほかのジャンルと共有する共通の条件を徐々に削減し、それぞれのメディウムの本質へと還元(純化)される」とする立場とは相容れない。グリーンバーグが、(のちにインターメディアと呼ばれるであろう)シュルレアリスムの異種交配性、文学性を嫌ったことがそれを例証する。
すなわち日本では、瀧口の存在を媒介とすることによって、シュルレアリスムは50年代以降のインターメディア的な実践へと連続する。批評家であると同時に、詩人であり、画家でもあった瀧口が重視したのは、異なる表現形式がいかに変換されるのか、あるいは異なる表現形式はいかにその異質さにおいて互いに通底するのか、という問題だった。同じことが大辻にも言える。大辻がシュルレアリスムから出発し、「実験工房」のメンバーとして、インターメディア的な実践の記録者、併走者、実践者のすべてになり得たことは、瀧口の活動が抱えた問題が大辻の活動にも流れ込んでいたということではないか。
実験工房では、駒井哲郎、山口勝弘、北代省三、福島秀子、秋山邦晴らによる多様な実践が交錯した。その特徴をあえて一言でまとめれば、実験工房の活動には、一貫した現前性批判があったと言える。美術と音楽が交錯する場であった実験工房において、美術家たちは、実体となる物質をもたず、楽譜と演奏からなる音楽という表現ジャンルを参照するように、音楽的な記譜、写像、転写、そしてその一種である模型の制作からなる実践を展開した。ゆえにその活動では、一次的な実体、物体よりも二次的なその写像への変換過程こそが重視される。そのため実験工房は多くの物理的な作品を残さず、一時期は関係者をのぞいて忘却されていた。実際、2013―14年にかけて開催された「実験工房展:戦後芸術を切り拓く」では、実作品をはるかに超える多くのアーカイブ資料が、作品群と同等の重要性をもって展示された。それは実験工房が、その活動を作品の物理的な現前に着地させることに強い関心をもたず、むしろ、イメージや異質な表現形式の変換過程に関心をもち、実体への批判、現前性への批判によって貫かれていたことを示す。

4.

その意味で、この展覧会の「1. 原点」のセクションで紹介されているように、同時代の美術を記録する大辻のアーカイバルな活動の初期に、福島秀子と田中敦子という二人の女性作家を撮影する仕事があったことは重要である。大辻は、福島秀子をモデルとしたポートレート写真《美術家の肖像》(1950)を撮影している(空間構成は阿部展也による)。ここから大辻と福島の協働が開始された。福島はスタンプ(型押しによる円)による絵画を展開したことで知られる作家である。福島のスタンプ=版による絵画は、実験工房の活動の核心にあった、転写と写像、像の変換過程からなる制作を、絵画的な方法として展開するものだった。
田中敦子もまた、具体美術協会のメンバーとして活動しながら、マテリアルや身体の現前性、具体性を強調する「具体」グループの現前性信仰とは一線を画す活動を展開した作家である。大辻は、色とりどりの管球と電球を取り付けた、自作の《電気服》を着た田中を撮影している。電気回路を使用する田中の《電気服》は、その方法において、配線で繋がれた20個のベルが順番に鳴る《ベル》(1955)に連続していた。その後、田中が《ベル》や《電気服》で用いた電気の回路、信号のサーキットは、円形が複数の糸の回路=ネットワークで連結して示される絵画作品へと結実することになる。
円形が繰り返し反復、転移する福島と田中の絵画には、インターメディア的な実践において展開されることになる思考の枠組みがすでに提示されている。それらの作品では、事物の同一性が維持されること、あるいは特権的な中枢が維持されることがなく、作品の諸要素は、変換と交換の連鎖として組織されることになるからである。
大辻の活動もまた、こうした思考の枠組みと連動していた。1969年2月「クロス・トーク/インターメディア」と題されたイヴェントが、国立代々木競技場第二体育館で開催された。アーティストとエンジニアの協働からなるこのイヴェントでは、舞台となる体育館に音響機器や映像機器などが持ち込まれ、エレクトロニクス、映像や照明、身体的パフォーマンス、サウンドなどのさまざまな要素が実験的に交錯する状況がつくられた。大辻はこのプログラムのリハーサルを撮影している。
本展では、各演目のリハーサル過程を記録した35ミリ判ロールフィルム9本を精査し、大辻が撮影したシークエンスをベースに「クロス・トーク/インターメディア」の再構成が試みられた。このイヴェントは、海外からロバート・アシュレー、ゴードン・ムンマ、サルヴァトーレ・マルティラーノらが参加し、日本からは一柳慧、松本俊夫、塩見允枝子、小杉武久らが参加した。「クロス・トーク/インターメディア」において作家たちがエンジニアとの協働により展開したのは、光や音、映像、パフォーマンスなどのさまざまな事象の変換、干渉、増幅、サーキュレーション、フィードバック機構などである。そこでは機器とパフォーマー、楽器と演奏者を厳しく区別する境界が消滅し、それぞれの表現媒体は別のものへと変換され、互いに交換される、中枢なき回路だけが存在する。フィードバックは、一方的な指示系統がなく、出力と入力の関係において再帰性(双方向性)をもつ。本展で試みられた大辻の写真のシークエンシャルな再構成は、そこで生じたサーキュレーションを、写真による複数の事象の連結、交流として応答するかのようである。

5.

先に、大辻の仕事の捉え難さの一部は、彼の仕事の多様さ、膨大さと、それを支えるアーカイバルな性格に由来すると書いた。それは、大辻が、一点ものとして成立する作品=アートピースとしての写真のありかたに一貫して距離を置いたということと関わっている(それは彼が「写真作品」を制作しなかった、という意味ではない)。言い換えれば、それは大辻が、ときに独立した作家でもあり、ほかの作家の協働者やパフォーマーでもあり、透明な記録者でもある、その意味であらゆる境界領域の中間で活動することができる(つまり複数のアイデンティティを同時にもつことができる)写真家という職能の特異性を意識的かつ全面的に駆使したことと関わる。結果として、大辻の仕事は、50年代以降の日本の文化状況において、複数の事象を連結する、文字通りのネットワーク、触媒として機能した。
それは大辻自身が、写真というメディアに本来的にそなわっていた、それ自体は事物として自律することができない、非自律的な性格を強く自覚していたことに関わると言えるかもしれない。『アサヒカメラ』誌で一年間にわたって連載された「大辻清司実験室」で写真家は、東京の雑踏、「界隈」に関心を向けた。界隈を記録した一枚の写真のなかで、無数の事物、事物と事物のあいだにある間隙、そのほか意識されることなく目の前を通過するはずのさまざまな細部が出会う。そのとき大辻は、意識の下に沈み込んださまざまな細部の滲み、モノたちの交流、それら相互の干渉や交配を写真がとらえる様を、都市の雑踏や界隈を通じて見たに違いない1。そこに、写真の、本来的にアーカイバルな性質が存在する。意識が排除してしまうものを、写真は保存することができるからだ。撮影した本人すら「他人事」にしてしまうような、表現主体の中枢性を欠いた無意識がそこで駆動するからこそ、写真は、事物たちの秘められた交流、見えないネットワークを記録することができる。以下に引く大辻の言葉は、彼が写真という装置を通じて触れようとしたものの内実を伝えている。

ここにあるどの写真も、彼が意識で包んだ部分などたかが知れています。彼とこの写真を結ぶ糸は、この写真が生まれる契機となった彼の動機と、その動機に従って画面作りを導くほんのちょっとした方向づけです。あとの大部分は、現実の緻密な細部構成と時のさだめ、偶然の出会い、といったものです。
だから撮影者自身ですら、自分の写真を他人事のように楽しむことができる。写真の面白さとは、こういう撮影者の意識から外れてしまっている大きな部分の働きなのではないか、と思うのです。

――「大辻清司実験室⑨〈なりゆき構図〉」『アサヒカメラ』60巻11号、1975年9月、203頁

 大辻がみた、撮影者の意識によって包まれた部分の外にある「意識から外れてしまっている大きな部分の働き」は、ヴァルター・ベンヤミンが『写真小史』(1931)で指摘した「視覚における無意識的なもの」に接近している。写真は生理学的な認知のおよばない光学的な情報のすべてを「自動的」に転写する。ゆえにそこにはそれまで開示されることのなかった「徴」がいたるところにひしめいている。ゆえに一枚の写真とは、そのような「徴」を貯蔵するアーカイヴである。シュルレアリストたちは、パリの街路を撮影したウジューヌ・アジェの写真に無数の「徴」がひしめく強烈な「自動性」を認め、熱狂した。とすれば、大辻の活動は、40年代末からこのシュルレアリスム的な無意識、写真の自動性に接近し、彼の集大成となる「大辻清司実験室」においてそれをさらに推し進めたのだと言える。こうして大辻の活動は、その始点と終点において一巡する。だが、その道行きのあいだには、かつて「現代美術」と呼ばれたものたちの記憶もまた貯蔵されている。

  1. たとえば、本展監修者の大日方欣一は、1975年の事物を撮影したスナップについて「ここでは、複数のモノどうしが交差し、共存し、混ざり合っているさまが浮かび上がる。(中略)すっきりした単数性の相貌ではなく、異なる要素どうしのハイブリットに干渉しあうさまとして、モノはモノたちとして現れてくる」と指摘している。大日方欣一「4-2. Things Held Dear[いとしいモノたち]」大日方欣一監修、村井威史ほか編『生誕100年 大辻清司 眼差しのその先 フォトアーカイブの新たな視座』武蔵野美術大学 美術館・図書館、2023年、44頁

沢山遼(さわやま・りょう)
1982年生まれ。美術批評。武蔵野美術大学造形研究科修士課程修了。武蔵野美術大学非常勤講師、東京造形大学造形学部絵画専攻領域特任准教授。著書に『絵画の力学』(2020年、書肆侃侃房)。主な共著に『現代アート10講』(2017年、田中正之編著、武蔵野美術大学出版局)、『絵画との契約―山田正亮再考』(2016年、松浦寿夫ほか著、水声社)などがある。